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マグノリアの花たち



死生を超えたところに人生というものはある。

  たぶん、この作家も愛する肉親を失ったひとりではないだろうか。
死とは、人生において誰しも避けがたいものであるが
ことさら子を残し逝ってしまった母の慕いには断腸の念があるだろう。

しかし、むろんこの作品はそんなことをいっているのではない。
また、人生を達観した諦念としての無常感がこの映像を統べているのでもない。
それは、祈りにも似た死生を超えた人生への讃歌である。

通常の作品においては、死というドラマティックな要素を取り入れることによって
浮薄なドラマを完成させようと試みるものが多いのに対し、ここでは
死というものにまつわる一切のセンチメンタリズムを排する演出がなされ
またその死もエンディングの新しい生命の誕生へと繋がっていることを、如実に顕して見せる。

トリュフォー『隣の女』でのエンディングを想起させる街並みを走行する車の空撮は
画的には相似していながらも、そこには生と死の違いがある。
とはいっても生死一如だが、隣の女の「死」は、あくまでも「終焉」であり
そこからはなにも生まれてはこない。


エンドタイトルのロールが静かに流れる後ろで
キャメラはとうとうと流れる大河をシンボリックに映し出し、そこでストップ・モーションとなる。
その大河の如く人生とは、否、万物の生命とは
各々すべての生死を呑み込んでとうとうと流れゆく悠久の時間(とき)なのである。 生命は各々独立している存在なのではなく、それらはすべて連環したひとつの輪なのであり
生から死、死から生へとことごとく転じながら、とうとうと宇宙を流れゆく太い帯
それが存在、つまり生命なのである。


この生命の連鎖のなかで、人とは生まれ死んでゆく。
そのひとこまを坦々と描いた佳作であった。


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